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2018年4月5日(木)

6年半前に、嵐友さまのご厚意で観せて頂いた舞台の、脚本家さんのブログで、当時を思い出しました。
【夕暮マリー さんのブログ】
彷徨と永遠
美しい虹さえ砕け散った街

お別れのご挨拶 その4 「舞台版・あゝ、荒野」

April 05 [Thu], 2018, 9:09


わたしの凡庸な人生の中で、ひときわ輝き、
またその輝きを思い出すたびに胸が痛む出来事がある。

それは「あゝ、荒野」舞台版の上演だ。

寺山修司の「あゝ、荒野」に取り憑かれたのは、
彼の本を編集している時だった。
それまでも寺山修司の戯曲やエッセイなどは読んできたが、
「長編小説」が遺されていることと、その意味などを深く考えることはなかった。

仕事の延長としてではあったが、
「あゝ、荒野」を読了した瞬間「これは日本文学史に名を残す名作だ」と確信した。
そして「何がなんでも、もう一度世に問うべきだ」と強く思った。
しかし、その時には河出書房新社の文庫として出版されていた。
だから、よくある初版を復刻するなどというやり方も、
あまり意味のあることだとは思えなかった。
まして、その文庫もそう売れている訳ではないと思われた。
一旦静まり、凪いでしまった湖の水を、もう一度波立たせるための方法が、
その時のわたしには判らなかった。

それから数年が経ち、
その間に集中的に写真について勉強する機会があった。
それまでも好きな写真家は居たし、無関心ではなかったのだが、
「写真史」という側面から個々の写真家や作品を視るということはなかった。
その頃わたしが好きだった写真家といえば、中山岩太、細江英公、
サラ・ムーン、ダイアン・アーバス、ラリー・クラークといった限られた人々であり、
わたしの悪い癖である、自分にとって「新しい」ものを受け付けず、
狭い殻の中に閉じこもってしまう傾向が露骨に出てしまっていた。

当時、今は亡きある写真家と共に、
日本の棄てられた風景を撮り集め、写真集を作ろという企画を進めつつあった。
結局その企画自体は陽の目を見ることはなかったのだがーー。

廃墟だけではなく、シャッター商店街や、昭和の匂いを残したままの街角、
また、風景公害と呼ぶしかないような電柱や電線が張り巡らされた場所。
考えられる限りの「喪失感」というものを封じ込めたものにしたかった。
そして、われわれは「故郷に居ながらの棄民」なのだという真実を追いかけたかった。
とはいえ社会的メッセージを強く打ち出すものではなく、
それを情緒あるいは「抒情」として表現したものにしたかったのだ。

その写真家と何度も打ち合わせをした。
こちらの制作意図を正確に伝えたかったからだ。
しかし、わたしの写真に対する語彙や基本的な知識が、
あまりに不足していると、その写真家は指摘するのだった。
打ち合わせの度に「次に会うまでにこれとこれは見ておいて下さい」と、
写真家並びに写真集を何冊か指定されて、それが宿題となった。

そういう経緯だったので、写真史を網羅して学ぶというより、
「その企画を実現させるための周辺取材」をするといった趣きだった。
だから、さすがにカメラ・オブスクラやダゲレオタイプの写真までは遡りはしなかったが、
モダニズム写真から「決定的瞬間」の写真、
ニューカラーから現代写真までを大急ぎで視ていった。
ロバート・フランクやウイリアム・エルグストン、ウイリアム・クラインなどを始めとして、
写真を志すものなら必ず視ておくべき写真集を次々と贖い、それを眺め続けた。
(ちなみに彼から教わった現代の写真で、
一番わたしを惹きつけたのは鈴木理策氏の作品だった)

それとは別に、音楽で言えばノイズミュージックに近い感触を覚えたのが、
森山大道氏と、中平卓馬氏の作品だった。
両名の作品によく言われる「アレ・ブレ・ボケ」という言葉は、
わたしにとってほとんど意味をなさなかった。
そのような言葉は作品を前にすると、表面をなぞっているに過ぎず、
作品の本質には何の関係もない。
第一にそのような特色があることなど、子どもでも視れば判ることだ。

森山大道氏の写真はそれまでも目にしてきたし、
彼が新宿を撮り続けていることも知っていた。
しかし、森山氏が「あゝ、荒野」の初刊行時に表紙写真を撮っていること、
そして「あゝ、荒野」の雑誌掲載時の担当編集者が中平氏だったこと、
それらは、その勉強期間の間に、遅ればせながら知ったことだった。
そしてわたしがとても好きだった細江英公が三島由紀夫を撮った「薔薇刑」は、
その焼きの作業を、当時細江氏のアシスタントを勤めていた、
森山氏の手によるものだったことも。

そして、やっと思いついたのだ。
「あゝ、荒野」は60年代の新宿を舞台とした作品だ。
その中で二人のボクサーを中心とした群像劇を、
ジャズの即興演奏を範として描いた物語なのだ。
これに、当時の新宿を撮っているはずの、
森山氏の作品をぶつけてみたらどうだろうかと。

そして企画は成立し、関係各者の了承も得ることが出来て書籍の制作が始まった。
多忙を極めていたはずの森山大道氏は、
200枚を超える写真を「新しく」焼き直してくれた。
すべては「寺山さんとの再度の共同作業」のために。

その間にも色々と勉強することがあったし、
造本をお任せしたデザイナー氏にも多大な示唆を受けた。
やがて、その書籍は刊行へと順調に進み、
かなりの好評を得ることが出来た。
好意的な書評や、思いのこもった書評を書いてくれた人々もいた。

書籍が出来てしまえば、仕事は終わりのはずだった。
しかし、わたしはまだ何かが不足だと思っていた。
関係者と話している内に、何とか映画化できないものかという話になった。
しかし、企画段階で叩き台となるプロットもなく、
ただ書籍だけを頼りにして売り込む訳にもいかないということで、
わたしは「僕がとりあえず台本を書きますよ」と口にしていた。
映画の台本書きなど、一度もやったことがない。
しかし「何か出来そうな気がする」というだけで、
わたしは躊躇なくそれに着手した。
書き上げた台本は関係者には評判が良く、
「これを下地にして、企画を売り込めるね」という事になったが、
当時はプレゼンテーション先から良い返事を貰うことは出来なかった。

やや時間が経ち、今度は蜷川幸雄氏が、
寺山修司の戯曲「血は立ったまま眠っている」を演出することとなり、
わたしはその公演を観に行った。
蜷川氏の演出は冴えていたが、
いかんせんあの作品は寺山修司の若書きの戯曲であり、
若干頭でっかちで説明不足の感があることは否めない。
しかし、蜷川氏の演出技法を観ているうちに、
「この人なら「あゝ、荒野」を演出出来るのではなかろうか」と思ったのだ。

そして今度は、一度映画を念頭において書いた台本をすべて解体し、
直線的時間芸術である「演劇」用に、すべてを書き直した。
その間には、他の仕事もしていたし、忙しく出張を繰り返す日々だった。
その合間を縫って、わたしは少しずつ戯曲を完成させたのだった。

書き上げた戯曲は関係者の手によって比較的早く蜷川氏本人の元へと届けられた。
渡した翌々日に、関係者からわたしに連絡があった。
それは「蜷川さん、「あゝ、荒野」やりたいって」という、
驚愕すべき返事だった。

まさか、一編集者に過ぎないわたしの書いたものに、
世界的な演出家である蜷川幸雄氏が反応してくれるなどとは、
夢にも思っていなかった。いや、夢くらいは見たかも知れないが、
それが実現するなどとは考えていなかった。
わたしの中にあったのは「あゝ、荒野」という、
寺山修司が遺した唯一の傑作長編小説を、
多くの人に読んでもらいたいという思いだけだったからだ。

しかも、二人のボクサーの配役を聞かされた時には、二度驚くことになった。
それはそうだろう。当代きっての人気アイドルと、
若手の俳優としては充分名の通った人物がそれを演じるという、
前代未聞の、それは「事件」だった。

その二人ときちんと話す機会が一度だけ設けられた。
それは、公演ポスターのための撮影の日だった。
それを撮るのはもちろん森山大道氏だ。
撮影は最小人数だけで行われた。
夕闇迫る新宿ゴールデン街での路上撮影だった。

森山氏はいつも通り素早く撮り終え、
そして若干の世間話や打ち合わせを終えて先に帰られた。
当然、皆んな早めに帰るのだろうとわたしは思った。
なにせ誰もが途方もなく忙しい身なのだから。

しかし二人は帰ることなく、
着替えと待機のために押さえた飲み屋の二階部屋で、
われわれとしばらく話をすることになった。
しばらく四方山話をしていたが、
同席していたプロデューサー氏から、
「作家として、お二人に伝えておきたいことはないですか?」
と話を振られた。

わたしがその時話したのは、
「あゝ、荒野」は寺山さんが文芸の世界から演劇の世界へと、
その足を踏み出す前年に書かれていること、
つまり、どこまでも受け身でしかない文芸作家ではなく、
積極的に世間に問題を突きつける「行動者」として、
演劇の世界に身を投じる直前の、
「文芸との決別」のために書かれたものだという私見と、
そして、わたしにとっては一番重要な事柄であった、
「新次」と「バリカン」という二名に分かれて書かれている人物は、
寺山修司の二面性を表したものであり、
二人は二人でありながら、
実は寺山修司という一人の人間を描いたものだということだった。
あくまでもわたしの創作上の設定に過ぎないことをご理解いただきたいが、
その見立ては確実なものとしてわたしの中にあった。

人間はそれほど単純な生き物ではないが、
大きく二つの面に分かれて(分裂して)いる。
それは未来を志向し、開かれたポジティブな自分と、
過去に拘泥し、内面に閉じこもろうとするネガティブな自分だ。

ネガティヴな部分に足を掴まれてしまえば、
人は前に進むことが出来ない。
「明日」へと胸を張って進むためには、
ネガティヴな自分は殺してしまうしかないのだ。

「だから、二人は二人だけれども、同じひとりの人間なんだよ」
とわたしは言った。

当然、わたしにはわたしの、蜷川さんには蜷川さんの解釈がある。
稽古が始まり、蜷川さんの指示があれば、それは忘れてもらって結構という、
留保付きの、あくまでも戯曲を書いた人間としての意見だったが、
二人はわたしの話を真剣に聞いてくれた。
わたしはその事を決して忘れはしないし、とても感謝している。

「血は立ったまま眠っている」を観たわたしに判っていたのは、
蜷川氏には多額の予算が必要な演出を断行させる特別な力があるということと、
俳優を役柄にはまり込むまで追い詰める熱意があることだった。

だから、わたしは戯曲を書く際に、どんな制限をも設けなかった。
ボクシングの試合の場面があるのなら、現物のリングが必要なのだ。
ボクサー役を演じるならば、肉体をボクサーに見えるまで鍛える必要がある。
そうでなくては語ることが出来ないセリフやト書きを、
まったく躊躇なく書いた。わたしは自由だった。
専門的作家ではないからこその自由だ。
そして原作者である寺山さんはもうこの世の人ではない。
誰の意見も指示も受ける必要がなかった。

わたしは半身を寺山さんに譲渡し、
半身を自分自身の詩的才能に浸した。
だから、原作にはないセリフや設定を勝手に書き入れ、時間軸の変更も行った。
わたしにとっては「新次」と「バリカン」、
芳子や「片目」、自殺研究会の面々、そしてすべてのキャストへの、
深い思い入れと愛情があっただけなのだ。
それ以外のことはどうでもよかった。

それを当時寺山修司の著作権管理をされていた、
故・九條今日子さんが何一つ文句も言わず認めてくださったことには、
深く感謝をしている。

公演が始まるまでに、わたしがキャストとスタッフ全員に会うことが出来たのは、
読み合わせの1日目だけだった。
それ以降は、蜷川さんにすべてお任せした。
しかし、その時期、わたしは精神に異常をきたす過程の最中におり、
日々がジェットコースターに乗っているような鬱と躁の氾濫に襲われていた。

故に、躁の時には暴力的になり、暴言を吐き、そうした衝動を抑えることが不可能となり、
一方、鬱に捕まると「自分など生きている資格もないのだ」と自暴自棄になった。
その余波を当時の制作陣にぶつけてしまったこともある。
いま考えると慚愧の念に堪えない。深くお詫びする次第である。

制作陣や演出助手の方からは、稽古の進捗状況の報告を受けていたし、
台本の変更点も細かいところまで、わたしにきちんと話をしてくれた。
とても誠実なチームだったと思う。誠実でなかったのはわたしだけなのだ。

しかし、そんな馬鹿新人脚本家の愚かな妄想や疑心暗鬼などとは関係なく、
舞台「あゝ、荒野」は、彩の国さいたま芸術劇場で、
2011年10月29日に初日を迎えた。
わたしは仕事の都合上、初日を観に行けなかった。
わたしが初めてその舞台を観たのは2日目の公演だった。

向かう道の途中にはチケットを手に入れられなかったファンが、
何人もプラカードを持って立っているのを目にした。
愛する人が全力で挑む舞台なのだ。
それは、絶対に観たいと思うだろう。
わたしは何故か少しばかりの疚しさを持ってその姿を見た。
脚本を書いた人間なのだから、観せてもらえるのは当然なのだろうが、
あの人たちにも観せてあげたいと、泣きたいような気持ちになった。

劇場に到着し、プロデューサーや関係者に挨拶をして、
わたしは指定された自分の席に座ったーー。

あの舞台の感動を、どのように表現したらいいのか判らない。
評判はもちろん良いものだったし、
好意的な舞台評も新聞に載った。
テレビなどでも大きく取り上げられたらしい(わたしは観ていない)。
しかし、そうした外部の反応など、わたしには関係がなかった。

すべてはわたしが思い描いた強度で、
カタルシスの彼方へと舞台が舞い上がるか否かにかかっていた。
それは一字一句戯曲通りに演出され演じられるということではない。
舞台は戯曲を超えて、生身の人間が演じ、生身の観客が感じることで完成される。
そしてスタッフワークはそのために技術を、
タイミングを、培った技のすべてを投入するのだ。

自分が書いたセリフが舞台上で語られるという、
初めての経験の中で、わたしは目眩く快感に襲われた。
そして脚本が変更された箇所では、純粋な驚きと発見があった。

しかし、あの舞台をご覧になった方ならお判りいただけると思うが、
劇場に入ると、舞台上には既にアンサンブルのキャストたちが数人おり、
他の出演者たちも客席通路を通って、少しずつ舞台に上がってゆく、
少なかったその人数は、上演時間が迫るにつれてどんどんと増えてゆく。
日常から劇への移行が緩やかに行われてゆく。
観客は最初訝しくそれを見つめるだけだが、
やがて劇空間へと自然に導かれてゆくのだ。
わたしは不勉強だったため、所謂「0場」というものを知らなかった。
(後にももクロが主演した舞台「幕が上がる」でもそれを観ることになるが)
観客の期待度は否が応でも高まってゆく。
あの「わくわくする感じ」は忘れることが出来ない。

やがてメインキャスト達も舞台に登場し始める。
一糸乱れぬダンスシーンの後に、
数多くのネオンや装置が上方から降りて来て、
そこは「架空の新宿」となる。
本物のパワーショベルが舞台に登場し、
そのショベル部分に乗った歌手が歌を歌い始める。

そして、主演の二人が登場するのだが、
そこに居たのは、アイドルでも俳優でもなく、
まさに「新宿新次」であり「バリカン」だった。

特に、本物の軽トラックの上にすっくと立ったまま登場した、
その新次役の「彼」の姿は驚嘆すべきものだった。
ファンも予期しなかっただろう。
彼がそこまで役柄そのものと化して登場するなどということは。

当時、彼のファンの間では、もう一度その舞台を観たいと、
病的なまでに思い詰めることを「新次病」という言葉で表現することが流行した。
彼に会いたいのではない。「新宿新次」に会いたかったのだろう。

個々のシーンの詳しい描写は避けるが、
やはり、忘れられないのは二人の対決シーンである。
セリフなどは一切ない。すべては肉体表現に委ねられる。
殺陣が付いているとはいうものの、
激しい動きの中で、どうしてもパンチはヒットしてしまう。
実際に二人の体には打たれた跡が赤く浮かび上がるのだ。
そのリアリティには凄まじいものがあった。
本当のボクシングの試合を観ているような興奮を覚えた。

ラスト、倒れて死へと旅立つ「バリカン」を抱きしめて、
「新次」は絶叫する。
もうひとりの自分の死を見つめての慟哭だ。
彼は自分自身を抱きしめている。
自分自身の死を悼んでいる。

それは、誰もが生きる上で必ず行わなければならない、辛い通過儀礼だ。

カーテンコールで、劇中死闘を繰り広げた二人は、
まるで仲の良い子ども同士のように戯れあいながら客席の歓声に応える。
死を通り抜けた後、ふたつに分かれた魂がもう一度ひとつになったように。

青山劇場での千秋楽のカーテンコールでは、
「赤い紙吹雪」がサプライズで降ってきた。
キャストにも知らされていなかったようで、
舞台上にも新鮮な驚きが溢れているのが窺えた。

その赤は、二人の血の赤である。
そしてその赤が照明によってキラキラと輝きながら舞台に降り注ぐ。
二人の血を祝福し、労うかのように。

劇中に使用された、
プロコル・ハルムの「青い影」がもう一度スピーカーから流れ始める。
観客のスタンディングオベーションと嵐のような拍手の中、
2011年12月2日、「あゝ、荒野」の全公演は終了した。

戯曲を書いてしまった人間として、
舞台「あゝ、荒野」に関わった、
すべてのキャストとスタッフに深い感謝を捧げます。

そして、今は亡き、蜷川幸雄さん。
本当にありがとうございました。
初めて観に行った時に、すぐわたしの席まで来てくれ、
いたずらっぽい目をして「どうだった?」と訊いてくれましたね。

素晴らしい舞台でした。
貴方の事は決して忘れません。
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